合わせ眼鏡
紅炉の月・森人の日――(現暦換算:八月二十三日)
「リゲル兄やん、明日の今頃はミーシャ、列車の中だね。帝都って、やっぱり大きいのかなぁ」
「……すまん」
「えー、リゲル兄やんは何も悪くないよ。ミーシャ、楽しかったよ。今までありがとっ」
「ミーシャ、俺はお前のことを忘れないからな」
「うん、ミーシャも忘れないよ。んーとね、んーとね、あっこれ。いつかまた、このレンズを一つにしようね」

この日の朝、リゲルはいつも使っているモノクルを手に取って見つめ、物思いにふけっていた。
実はこのモノクルは、最初からモノクルだったわけではない。元々は普通の眼鏡で、それを二つに分割した片方なのだ。残りの半分は、今も手放していないのなら、一人の女の子の首飾りになっているはずだった。
リゲルは、去年まで付き合っていた娘と離れ離れになるとき、自分の眼鏡を分割し、一つはモノクルに、もう一つは首飾りにしたのだった。いつか再び一つにできることを夢見て……。
「合わせ眼鏡か……」
リゲルは自嘲気味に、薄ら笑いを浮かべて呟いた。
「エロゲの設定をパクるとは、俺も馬鹿だな……」
ふと隣のベッドに目をやると、ラムリーザに引っ付いて幸せそうに寝ているソニアが目に入った。リゲルはそれを見て軽く舌打ちすると、身支度を整えて寝室から出ていった。
この日も湖で遊ぶことに変わりはなかった。
ソニアたち四人は、今日は桟橋に停めてあった手漕ぎボートに乗って、湖の沖へと出ていった。
透き通った水面を進むボートは、まるで鏡の上を滑っているように見える。
ラムリーザは一人、湖岸に腰を下ろして、その光景をぼんやり眺めていた。その手には、倉庫から見つけてきたゴムマリが握られていた。取り残されたわけじゃない。ボートがそれほど大きくないので、五人も乗るスペースがなかっただけだ。
「あいつら……、今日は沖釣りをしようと思っていたのに、勝手にボートを使いやがって」
遅れてコテージから出てきたリゲルは、ボートがなくなっていることに気がついてぼやいた。
「まぁ、そのうち飽きて戻って来ると思うよ」
「しょうがないな」
リゲルは諦めたように呟き、ラムリーザも肩をすくめてみせた。
その時、リゲルはラムリーザがゴムマリを握りしめていることに気づいた。それを見て、ラムリーザから少し離れたところに移動して言った。
「おい、そのボールこっちに投げろ」
ラムリーザは、急に何だ? と思ったが、素直に立ち上がってボールを投げてみた。リゲルはボールを受け取ると、すぐにラムリーザのほうへ投げ返した。
「えーと?」
「ボールというものは、握りつぶすのではなくて投げるものだ」
「あ、なるほどね」
リゲルの説明を聞いて、ラムリーザは再びボールを投げ返す。リゲルは少しずつ距離を取るように後退する。
こうしてしばらくの間、二人はキャッチボールを続けていた。
ラムリーザの投げる球は、力はあるが荒れ球。逆にリゲルの投げる球は、球威こそないが、コントロールが正確だ。
「リゲルって綺麗な球を投げるね。のだまの投手とか、やってみたら?」
「球速と球威が足らん。まぁ、女子供ならキリキリ舞いさせられるかな?」
「ソニアたちと、のだまする?」
「興味ない」
二人がキャッチボールしている間に、どうやらソニアたちを乗せたボートは対岸まで行ってしまったようだ。ボートを岸に泊めて上陸しているのが、遠目になんとか確認できた。
「あれじゃあ戻ってこないな、今回は船釣りは諦めるか。おいラムリーザ、お前のところの別荘は、確か南海の孤島だと言ってたな? 来年はそこで船釣りさせてくれよ」
「それは良いけど――」
ラムリーザが言いかけたところで、額に冷たいものが当たったような感触がして言葉を止めた。
気がつけば、先ほどまで青空だったはずの空が、いつの間にか曇天模様へと変化している。
ポツリ、ポツリ。雨だ。
雨粒は、徐々に大きく、激しくなってきた。
「ふむ、にわか雨か。山の天気は変わりやすいと言うからな、コテージに戻るぞ」
リゲルはボールを投げるのを止めて、コテージの中へと戻って行った。
ラムリーザもリゲルの後を追い、入り口の屋根の下に到着したときに、はっと気づいて振り返った。
ソニアたちは湖の対岸まで行ってしまっているのだ。薄暗くなって遠目に見づらくなっていたが、慌てた感じでボートに飛び乗って、こちらに戻って来ようとしているのがなんとか確認できた。
四人とも水着姿だから濡れるのは平気だろう。しかし、身体は冷えてしまうかもしれない。
雨はさらに強さを増してきた。
ラムリーザはこのまま外にいても仕方がないと思って、コテージの中へ入って行った。
「リゲル、ちょっと早いけど風呂の準備をしてやってくれ。あいつらびしょ濡れになって戻ってくる」
「ふっ、俺のボートを勝手に使った罰だ」
リゲルは、にやりと笑って言った。
「ロザリーンもびしょ濡れだよ」
ラムリーザは機転を利かせて言い返した。リゲルはソニアが困っても何とも思わないだろうが、ロザリーンとなるとそうも言ってられなくなるだろう。
するとリゲルは「それはいかん」と言って、すぐに風呂の準備をするためにボイラー室へと向かって行った。
その間にラムリーザはタオルを四枚用意し、ソニアたちが戻って来るのを待っていた。
「濡女!」
「濡女はあなたでしょ?」
「濡れ魔女!」
「水も滴るいい女と言ってくれないかしら?」
「じゃあ外でずっと立っていたらいいじゃないの!」
「あなたはおっぱいが1メートルもあるから、下半身はおっぱいが雨を弾いてくれて濡れなくていいわね」
「うるさいちっぱい! 雨が当たらないほど酷いちっぱいは、雷様に上から何の抵抗もなくおへそ取られるんだ!」
「あらっ? おっぱいに滝ができてるわよ」
しばらくすると、コテージの外から何やらお互いを罵るような言い合いが聞こえた。
突然の夕立に打たれて、みんな気が立ってるのか? と思ったが、よく聞くと、騒いでいるのはソニアだけで、挑発しているのはリリスだけ。平常運転だ。
ラムリーザが放っておいたら、いつまでたってもその掛け合いが終わらない。仕方なく、入り口のドアを開けて言った。
「何をしているんだね、君たちは……」
見ると、いきり立っているのはソニアだけで、リリスはそれを見てからかっている。ユコとロザリーンはそんな二人をどうしたものかと、困った表情で見つめているだけだ。
「あっ、ラム! このちっぱい濡れ魔女が、ずっと雨に打たれていたいんだって!」
「ソニアもこの夏初めてのシャワーで、身体が洗えて気持ちよさそうね」
「あっ、なっ! 誰が初めてよ! 昨日露天風呂で洗った!」
「騒ぐな。んー、このまま入ってきたらリビングがびしょびしょになるな、そのままコテージの裏に回って風呂に直行しなさい」
「でもラム、この魔女が――」
「行きなさい」
「――はーい」
なんとかなだめて露天風呂へ向かわせることに成功した。
ん? 露天風呂? 雨だけど大丈夫か? とラムリーザは思ったが、屋根がついてたかな、とか思い返していた。
コテージのリビングで、ラムリーザとリゲルは特にすることもなく、のんびりしていた。
この二人はコテージにさっさと引き上げていて、特に濡れていないので急いで風呂に入る必要はなかった。
外はますます暗くなってきて、時折ズトーンと雷が鳴るようになった。嵐が近づいてきたのかな?
「これだけ雷が鳴ってたら、ギター弾くのに邪魔だな」
「じゃあ歌を歌う?」
「歌ってみろ」
「光り輝く天国では――」
「ストップ、もういい」
そんなふうに、ラムリーザとリゲルが特に生産性もない会話をしているところへ、入浴を済ませた四人が戻って来た。
「雨と雷がすごいんで、さっさと切り上げたよ」
「ん、それは賢明だな」
それでもユコなどは、雷が鳴るたびに怯えているようだ。これはカーテンを閉めれば少しはマシになるかな。
一方ロザリーンは、落ち着いて昼食の支度をしていた。
「今日は魚はないの?」
「お前らがボートを勝手に使ったから、今日はなしだ」
ソニアはリゲルに尋ねたが、冷たくあしらわれてしまった。
「ほら、リリスが乗ろうって言うからリゲルが怒った!」
「何を言ってるのかしら、あなたが乗ろうって言い出したんじゃないの」
「言ってない! あたし泊めてあったボートに乗ってただけ! リリスが乗る? って聞いたから、うんと言っただけ! 乗るとは言ってない!」
ソニアはリリスに詰め寄って、まくし立てる。騒々しいったらありゃしない。
「屁理屈を言ってないで。というか、それは乗るって言ったことになるよ」
このままだと口論が終わりそうにないので、ラムリーザはソニアの腰を抱えてリリスから引き剥がした。
「やーん、下ろしてよぉ」
そのままソファーのほうへ運んでいって、ソニアの身体を両腕で少し持ち上げてから、ソファーの上に投げ落とした。
「ふーん、やっぱりラムリーザ様って腕力あるんですのね」
「5kgのおっぱいを、軽々と持ち上げて投げ飛ばしたね」
リリスの発した、また荒れそうな発言は、幸いなことにソニアの耳には届かなかったようだ。
ソニアは投げ飛ばされたことで、非難の矛先がラムリーザに向かっていたし、その口はラムリーザにふさがれて「むーむーむー」と唸るだけだ。
「ボートに乗ったのはどうでもいいから、少し落ち着いて静かにしろ。雨に濡れたからって何をそんなに興奮しているんだよ」
「違う! 悪いのはリリス! あたしんぐー、んー、むー」
「別に誰が悪いとか聞いてないから」
口を開くとすぐに騒ぎ出すので、ラムリーザはソニアの口を塞いだままそのまま顔をつかんで離さないようにするしかなかった。
ソニアは必死になってラムリーザの手を引き剥がそうとするが、残念ながら力の差がありすぎてどうしようもない。
「ごめん、ちょっと席を外す。食事できたら呼んで」
ラムリーザはそう言って、ソニアの口から手を放さずに、もう片方の腕でソニアを後ろから抱きかかえてリビングから出て行った。
「なんだか、あのまま肉釣り用のフックに引っ掛けて吊るしそうな勢いだな」
リゲルが呟いたように、その様子はまるで不気味なマスクを被った怪人が、被害者の女性を部屋の中に引きずり込むような雰囲気だ。
ラムリーザは、ソニアを抱えて寝室に入っていく。そのまま、そっと自分の口を重ねて、ソニアの口を塞いだ。最初はもがいていたソニアも、やがて力を抜いて、大人しくなっていく。精神的に落ち着かせるには、結局この方法が一番早い。
石鹸の香りがラムリーザの鼻をくすぐった。
「いざ、タリムへ!」
「いや、わからんて」
ソニアのよくわからない挨拶で、昼ご飯が始まった。
ロザリーンが作ってくれたのは、トマトやナスといった野菜を主な素材とした、ラタトゥーユという料理だ。いつもながら、料理のレパートリーが広い。
ラムリーザとソニアにとっては、親元を離れて生活するのはいつものことだが、他の四人にとっては珍しいことである。大人がいない、自由にできる時間を十分に堪能していた。
「そういえば、ラムリーザ様は去年の夏休みとか、どんなでしたの?」
「去年、んー、去年。んー、妹とソニアと一緒に、ジャンの店に入り浸って演奏したり遊んだりしていた印象が強いなぁ。あとは、父の計らいで城に泊まったりかな。宮廷料理はやっぱり違うね」
「城?! すごい……やっぱりラムリーザ様は私たちと違うんですのね……」
ユコは自分で聞いておきながら、一人驚いて何か考え込んでしまう。
「そういうユコは? リリスは?」
「夏休みを利用して、RPG二本クリアしたよ」
そう答えたのはリリスだ。ゲームにはまっていたんだな、今もそんなに変わらないけど。
「私もゲームしたり、楽譜書いたりダラダラと過ごしていたような。去年のリリスはあんまり外に遊びに行きたがらなかったし」
「去年の夏と言えば、『しらたき』か?」
リゲルが横から、よく分からないことを挟んできた。
「ええ、あれも感動できる名作でしたわ」
どうやらリゲルとユコの間では、会話が成立しているようだ。
「ふっ、お前はやっぱりな……」
リゲルが軽く笑ってみせたので、ユコは少し憤慨してしまった。
「何ですの?! でも、やっぱり今年の夏休みは全然違いますわね。何か充実していたっていうかー」
「それで、リゲルって去年はどうだったのかしら?」
リリスは、リゲルとユコの間で交わされた話の流れをとくに考えずに、今度はリゲルに話を振った。
「去年の夏か……。公園でギター弾いたり、海で釣りをして魚食ったり、ショッピングに出かけたり、ゲーセンとかかな。あと遊園――なんでもない」
「ふーん、リゲルさんは釣りとか公園とか、今年とあまり変わらないんですのね」
ユコは何気なく言ったが、ラムリーザには、リゲルの話は今年とは全然違うのだろうな、と分かっていた。
去年のリゲルには、それらのイベント時に、常に傍に一人の女の子がいたはずだ。リゲルの親によって引き離される前、二人はずっと仲良くしていたのだろう。
ラムリーザは、リゲルから話を聞いていたぶん、なんとなくそれが分かっていた。ミーシャとはどんな娘だったんだろうか、といろいろと想像していた。ラムリーザの予想では、真面目で大人しく、物静かな娘。リゲルの傍にいるのは、そんな娘しか想像できなかった。
雨はまだ降り続けている。
窓の外を見やると、さっきまでソニアたちがボートに乗って浮かんでいた湖の水面が、細かい波紋で埋め尽くされていた。晴れているときは鏡みたいに空を映していたのに、今はただ、灰色の空をそのまま受け止めているだけだ。
それでも、ここがクリスタルレイクであることに変わりない。ラムリーザが昨日見た星空も、一昨日感じた涼しい風も、みんな同じ場所の出来事だ。
晴れていれば楽しいだけのキャンプだったのかもしれないけれど、こうして雨に閉じ込められてみると、いつもより少しだけ、みんなの話が深いところまで聞こえてくる気がした。