監査の目、奔放の心
朧影の月・氷狼の日――(現暦:4月20日)
この日の放課後、いつものようにラムリーザとソニアは二人連れ立って部室に向かっていた。
無用の不安から解き放たれたソニアは、リリスやユコに臆することなく接するようになり、もう友達のような関係になっている。それはよいことで、ラムリーザもすっかり安心していた。
部室に向かっている途中、ラムリーザが少しトイレに寄ることにしたので、ソニアはトイレの入り口付近で待っていることにした。
廊下の角は風の通り道で、掲示板の赤いチョークが粉を落としていた。人の流れが一度切れ、音が薄くなる。その静寂の中、革靴の硬い音が二歩、近づいてきた。
そして――
「ソニア・ルミナス、少しばかり目に余るところがありますが、よろしいかしら?」

突然ソニアの前に、目つきの厳しい女生徒が立ちはだかった。
「だ、誰?」
「風紀監査委員です――ケルム・ヒーリンキャッツ。規程第六条、服装の整備。まず確認させていただきますね」
冷たい声ではない。ただ一音一音がきっちり整えられたような、よく研がれた声だった。肩にかけた腕章の銀糸が光を返す。
彼女の声に迷いはない。『個人の好き嫌い』ではなく『校則』を背に立っている語り口だった。
彼女の視線は、個人を見るというより『規律そのもの』を見据えているようだった。
「…………」
あっちゃー、ついに目をつけられちゃったなとソニアは表情には出さずとも内心苦笑いした。
胸が大きすぎてブラウスのボタンが留まらなくて、リボンも付けられずに胸元が開いたままになっていることについて、いつか突っ込まれると覚悟はしていたのだが……。
「あなた、少し服装が乱れすぎていると考えませんか?」
風紀監査委員と名乗ったケルムは、事務的に、それでいて厳しく攻めてくる。
「だって仕方ないじゃん」
ソニアは不満そうに答える。しかしケルムは、さらに視線を険しくして、力強く一歩近づいた。
「仕方がない、で済ませるのは簡単です。でも、それを理由に他の部分まで崩れていけば、あなた自身が損をします」
彼女は、決して声を荒らげない。事実だけを淡々と述べ、まるで校則の秩序をそのまま口にしているかのようだった。
「まず、その靴下の履き方は何? だらしない」
昨日、体育館の用具室でラムリーザに誘惑ごっこを仕掛けた時に、生足を見せつけるという名目で、履いていたサイハイソックスをくるぶしのところまでずり下げるということをして見せたのであった。
もともとソニアは、長い靴下を鬱陶しいと感じていたし、下げたまま履いていても誰も文句を言わなかったので、今日は朝からずっとそのままにしていたのだった。
仕方ないなーと思いながら、ブラウスと違ってこちらは直せないわけではないので、ソニアは靴下を太ももの半ばまでしぶしぶ引き上げた。
「これで文句ない?」
それでも不満そうに口を尖らせて言い放つ。
その表情を見て、風紀監査委員のケルムはさらに厳しい目つきでソニアを見て言った。
「それよりも、その胸元はどうにかならないのかしらね?」
「ならないわよ! どうにかなると思うのならあんたが留めてみたらどうよ」
ケルムは「子どもじゃないのだから」とつぶやきながら、ソニアのブラウスの胸元を引っ張ってボタンを留めようとしたが、「確かに……無理ね」と言った。
確かにボタンは届かないし、無理に留めようとすれば、ボタンがすぐに飛ぶかブラウスが破けるか、どちらかの結果になるのは明白だった。
「だから言ったじゃない、仕方ないって」
「体格に合わない既製品サイズで苦労しているのはわかります。ただ、他の箇所で整える努力は必要です。校内は『見せ方』も含めて学ぶ場所ですから。今のあなたは、正直言ってだらしない」
彼女はソニアの胸を指でつつきながら、厳しい口調で続ける。その行為自体は風紀監査委員としてどうかと思われるが。
「だ、だらしないって何よ、ちっぱい!」
「とにかく! その胸元はどうしようもないのはわかったから、せめて他の場所ぐらいはきちんとしなさい」
そう言われると、ソニアは口を尖らせたまま何も言い返せなくなってしまう。
「あなた個人を責めたいのではありませんが、フォレスターの名は目立ちます。評判は、あなた一人のものではないのです」
彼女はソニアから一歩離れて、一礼だけして踵を返した。その背筋の通り方が、まるで規律そのものの輪郭のようだった。
ラムリーザがトイレから戻ってくると、ソニアがしょんぼりしているのに気がついた。これではまるでしょんぼりソニアちゃんだ。
「ん? 何か元気がなくなったように見えるけど、何かあったのか? ちっぱいとか叫んでいたようだが、ちっぱいって何?」
ソニアはラムリーザの姿を見て安堵の表情を浮かべたが、すぐに恥ずかしそうに横を向いて言った。
「風紀監査委員に注意された……なによ、あのちっぱい……」
ラムリーザは、「あー」と言っただけで、その先にかけてあげる言葉はすぐには浮かばなかった。
いつかは目をつけられるという予感はしていた。いつもオープンしている胸元は、他の人が目のやり場に困るだろうということは、なんとなく予想がついていた。
「言い方はきつかったのか。でも、彼女の言いたいことも分かる、『直せるところは直そう』って話だ。直せないところは、僕が理由を説明するから、二人で折り合いを探そうよ」
「直すって何よ」
だからラムリーザは、それだけじゃなかったところを指摘する。
「だから靴下はちゃんと履こうって言ったじゃないか」
「むー……」
しょんぼりしていた顔が、今度は膨れてしまった。
「仕方ないな」
ソニアが落ち込んでいるみたいなので、ラムリーザは肩に手を回して抱き寄せて、そのまま部室まで行くことにした。
その状態こそ、風紀監査委員に何か言われそうな状況ではあったが……。
事実、その様子を一人の女生徒が立ち止まって見ていた。
ケルム・ヒーリンキャッツ、彼女は腕章の文字を指先でなぞりながら、誰に聞かせるでもなく小さくつぶやく。
「秩序は、崩れる時ほど美しい……」
その声は風に溶けて消えていった。
「ふむ……」
「うん?」
その日の夜、ラムリーザとソニアは一緒に部屋でくつろいでいた。今日はお互いに並んでソファーに腰掛けている。特にゲームをやるわけでもなく、ただぼんやりと時間を潰していた。
普段ならソニアがゲームをやっているのを、ラムリーザが横から見ているという風景が自然なのだが、今夜はゲームを起動させてはいなかった。
ソニアは新しく買ったギャルゲーを続ける意味がなくなったのか、それとも今日風紀監査委員に注意されたことを気にして落ち込んでいるのか。
その時、ラムリーザは特に意識していたわけではないが、じっとソニアの胸を見つめていた。
二人とも入浴後で、バスローブを着ている。ソニアは髪を乾かしながら、少しうつむいている。
「今日の風紀委員のこと、まだ気にしてる?」とラムリーザが問うと、ソニアは「ううん、でも……やっぱり恥ずかしい」と視線を落とした。
そしてソニアのその大きな胸は、バスローブを盛り上げて、さらに胸元は大きく広げられているのだ。
「もー……、さっきから胸ばかりじろじろ見て……」
ラムリーザの視線に気がつき、顔を赤くしてソニアが抗議する。胸元を押さえ、少し居心地が悪そうに身じろぎした。
「そ、そんなにあたしの胸が……、魅力的?」
「いや、こうしてじっくり見てみると、周りの子とは全然違うんだなぁ、とかね。メルティアとかそんなでもなかったし、リリスもユコもそうじゃないし」
メルティアとは、帝都で暮らしていた時のソニアの友人のことである。
「やだ、もぅ……見すぎ」
ソニアが頬をふくらませて恥ずかしそうに胸を腕で隠すので、ラムリーザは目線を外して苦笑した。
「目立つことは、悪いことじゃないよ。ただ、どう見せるかを選ぶのが難しいだけだよ」
ソニアは、足を出すのは平気なのに、胸に関しては恥ずかしがるということか。
実際、フォレスター家の母も娘――ラムリーザにとっては妹――も、それなりに胸は大きかった。規格外のソニアほどではないが……。
「…………」
「…………」
「ラムは胸は大きいほうが好き?」
しばらく沈黙が続いた後、ぽつりとソニアが尋ねた。
ソニアにとって、この問いは賭けでもあった。
ラムリーザが大きいほうが好きと答えてくれれば問題ないが、小さいほうが好きと答えたら自分にはどうしようもない。
「胸かー、んー……」
「どっち……?」
「そうだな、胸なんてもんは――」
どうでもいい……と言いかけて、ふとソニアの表情を見てその言葉を止める。その表情を見て、なんとなく察したラムリーザは続ける言葉を変えることにした。
「順番を変えるよ。僕は『ソニアが好き』が先で、『そのソニアの特徴を受け入れる』が後。だから結果として、大きいのが好き、になるだけ」
ラムリーザは腰掛けていたソファーから立ち上がり、隣に座っていたソニアの前に立ち、体をかがめて正面から肩を掴みながら言った。
その台詞は我ながらずいぶんと遠まわしな言い方だなと思う。だが、これがラムリーザが咄嗟に思いついた、最大限のフォローでもあった。
そして、夜風に当たるためにバルコニーに出ていった。少し照れ臭かったのを隠すために。
「そっか、好きなんだ」
ソニアは、ラムリーザが出て行ったバルコニーのほうを見ながら小さくつぶやく。そしてよかったと思って胸をなで下ろすのだった。
ソニアは腕を下ろし、小さくうなずく。もう胸を隠す必要はなさそうだ。
「あたしを胸じゃなくて、『あたし』として見てくれるなら、いいや」
この大きな胸はいつも邪魔でしかなかったが、ラムリーザが好きと言ってくれるならまんざら悪い気はしない。
風紀監査委員に嫌味を言われたこともあって気分が沈んでいたが、このことを聞いてなんとなく気分が晴れていく感じがしていた。
「やったね、ラムはちっぱいなんか趣味じゃないんだから」
ニヤニヤと笑みを浮かべてつぶやきながら、ソニアも一緒に夜風に当たるためにバルコニーに出て行くのであった。
南国のエルドラード帝国では、この時期でも外は十分に暖かい。そしてバルコニーには、二人がゆっくりと休めるように、デッキチェアが二つ並んでいた。
ソニアはラムリーザと並ぶようにデッキチェアに寝転がって空を見上げた。空には二つの月が並んで浮かんでいる。
「ねぇ、あの月ってあたしたちみたいだね」
「そうか?」
「だって、いつも同じ空に並んで輝いている」
ラムリーザは、空を見上げた。大きめの月と、小さめの月が並んでいる。
「大きいほうが僕で、小さいほうがソニア?」
「やだ、あたしが大きいの」
「おっぱいが?」
「……やっぱりラムが大きくていい」
なんだかおっぱいの話ばかりしている夜だな、とラムリーザは思った。