軽音楽部、はじめの一音
朧影の月・竜神の日――(現暦:4月6日)
ポッターズ・ブラフにて――。
エルドラード帝国の帝都シャングリラから見て、南西部に位置する地方都市である。田舎というわけでもなく、都会というわけでもない、ごくごく平凡な帝国の一都市に過ぎない。
この都市の景観で目立つのは、西に広がるアンテロック山脈と、ひときわ高いアンテロック山だ。そしてポッターズ・ブラフは、このアンテロック山の裾野に位置している。
今日からラムリーザとソニアが通うのは、ポッターズ・ブラフにある帝立ソリチュード学院である。
駅から一番近いという交通の便の良さと、この地方における唯一の帝立学校というのもあって、この地方の有力者の子息が通っている割合が高い。
そして、この日は入学式だった。
入学式が終わると、体育館の中に残っていた拍手の余韻が、ゆっくりと遠ざかっていった。
外へ出ると、春の光が校舎の白壁を照らし、どこか懐かしいような埃と蝋の混ざった匂いが鼻をかすめた。床は丁寧に磨かれていて、歩くたびに靴底がきゅっと鳴る。
帝都の校舎より少し古いが、木の温もりが残っている。窓から吹き込む風は湿り気を帯びて、遠くで花の香りが混じっていた。
ソニアが小さく深呼吸する。
「なんだか、空気が甘いね」
「湿度が高いからな。帝都より南にあるから、すぐに夏みたいになりそうだ」
廊下の壁には、色とりどりの掲示物と新入生歓迎のポスター。インクの匂いがまだ新しい。
ラムリーザは、まだ誰も自分たちを知らないこの校舎を見渡しながら、胸の奥でかすかに鼓動が速くなるのを感じた。
ここから三年間を過ごすのだと思うと、不思議と現実感が薄い。それでも、確かに「新しい日常」の匂いがした。
そのまま二人は下駄箱へ向かった。とりあえず寄宿している屋敷が町内にあるので、自然とそうなる。
式のあった体育館から下駄箱に向かう廊下を歩いていると、校内掲示板に目がとまった。そこにはお知らせに混じっていろいろな部活の勧誘ビラが貼られているようだった。
ソニアは掲示板の前に立ち止まって、「部活かー」とつぶやいた。
「ねえラム、何か部活やってみない?」
「部活?」
「うん、せっかく三年間楽しむことにしたのだから、何かやってみようよー」
「ん、そうだな」
そう言いながら二人は勧誘ビラを一枚一枚見ていった。
ラムリーザは、さほど部活に興味はなかったが、ソニアがやりたいというのなら付き合ってあげる気ではいた。
「ラムは何がいいと思う?」
誘ったソニアのほうから、ラムリーザに選択を促した。ラムリーザは、やる気のない視線を掲示板に向けて、適当に右上から順にソニアに振ってみることにした。
「治安維持部神秘課でオカルトを体験しようか、興味深いね」
「やだ、暗そう。お化けなんて嘘よ、寝ぼけた人が見間違えたんだっ」
「それじゃあ旅行企画部は?」
「やりたくない、旅行するならともかく、企画立てるだけで何が楽しいのかわかんない」
「のだま部」
「よくわかんない、というか『のだま』って何?」
「まったく、わがままだなー。それじゃあソニアが選べよ」
「そうねぇ、あ、風紀監査委員ってのがあるよ? こらぁ、不純異性交遊はいっかぁん! なんてね」
「そんな胸元を大きく広げておっぱい丸出しな風紀監査委員があるか。逆に注意される側だろ、ふふっ」
「あ、笑った! ボタンが閉まらないんだからしょうがないじゃない! それに丸出しなんかしてないよ!」
両手をクロスさせて胸元を隠しながらソニアは声を荒らげる。隠すポーズがまるで何かを抱えているようだ。
入学前の試着でも確認したとおり、ソニアの胸が大きすぎて制服のブラウスのボタンが上二つほど閉まらないのだ。ちなみに三番目のボタンも危ない。
「じゃあ合唱部はどう? あー、あー!」
ソニアはソプラノの声を出しているつもりなのだろうが、可愛らしい声が響くだけでちっとも美しくない。
廊下を歩いている他の生徒が、耳をふさぎ、ソニアのほうを怪訝そうな目で見ながら通り過ぎていく。
「そこってどうせ女子だけだろ、ソニア一人で行ったらいいじゃないか。やっぱり僕は帰るね」
ラムリーザは、ソニアに突然隣で騒ぎ出されて恥ずかしくなり、付き合ってあげる気はどこかに吹っ飛んでしまって、その場を立ち去ろうとした。
「あ、待って、待ってよ。軽音楽部があるよ!」
ソニアは、慌ててラムリーザの袖を掴んでその場に引き止める。
「ソフィーちゃんと離れ離れになっちゃって、家でも二人でしか演奏できなくなっちゃったので、部活でバンドやらない? それならラムも一緒にできるでしょ? ねー、やろうよー」
袖をぐいぐいと引っ張りながら甘えたような声を出してくる。何も知らない他の生徒もいて、こちらを見てクスクス笑う者もいれば、ニヤニヤする者、無関心な者もいるとさまざまだ。
「わかったわかった。それなら、ちょっと顔出してみるか」
「うん、それでは出発ー進行ー!」
ちょっと周囲の視線が恥ずかしかったラムリーザは、ソニアの意見を受け入れて軽音楽部の部室を目指して歩き出した。
軽音楽部の部室は、第二予備棟の一階にあった。そこは音楽関係に特化した場所になっていて、二階を吹奏楽部、三階では合唱部が使用しているようだ。棟内はある程度の防音が整っているらしく、外にいた時は窓から楽器の音や歌声が少しばかり聞こえていたが、棟内に入るとほとんど聞こえなくなった。窓を閉めていれば、ほとんど音は漏れないのだろう。
「とりあえずノックしてみよう」
部室の入り口にたどり着いたラムリーザは、ドアを軽くコンコンと叩く。すると、中から「どうぞ」と言う男子生徒の声が返ってきた。
ドアを開けて部室の中を見ると、一番目立つのが奥にある簡易ステージだった。そして、中には男子生徒と女子生徒が一人ずついた。二人はステージ前に置いてある椅子に座って、こちらを見ていた。
ラムリーザとソニアは、並んで一緒に部室に入ったが、数歩も歩かないうちにガタッと音がして、ソニアが転ぶ。入り口の壁際に置かれていたスタンドの足に、足を引っ掛けたようだ。
「あー、その辺りごちゃごちゃしているから、足元気をつけてな」
男子生徒の声がかかるが、ソニアは何か諦めたような顔をして黙って立ち上がった。
「新入生のラムリーザです、よろしくお願いします」
「ソニアです、よろしくお願いしました」
二人の先輩の傍まで行った二人は、揃って深々と頭を下げ挨拶する。その時、ソニアのたわわな胸が大きく揺れるが、それはまあどうでもいい。ソニアの挨拶が、なぜか過去形なのも気にしないで置こう。
「よく来たね、歓迎するよ。こちらこそよろしくな」
最初にそう答えたのは、顔立ちの整った男子生徒だ。彼は言葉を続けた。
「三年生のジャレスだ。そしてこちらの女性が――」
「同じく三年生のセディーナ。部長をやらせていただいています、よろしくね」
「はい、先輩方、こちらこそよろしくです」
部長のセディーナが三年生で女生徒。そしてジャレスが同じく三年生の男生徒。部活のメンバーは現在この二人のようだ。
「二人の入部があって少し助かったわ。この学校で部として認められるのに最低六人必要なの。あと二人集めないと、今年から同好会に格下げにされるところなのよ」
「それは大変ですね」
去年までは人数は揃っていたのだが、大半のメンバーが卒業してしまって二人だけが残ってしまっていた。ラムリーザとしては、部だろうが同好会だろうが、とくにどうでもよかった。
「ラムを誘ったのはあたしだけどね」
「ところで、二人のパートは何かしら?」
「あたしはベース、ラムはドラムよ。絶対にこのパートは崩さないでね」
ソニアはさりげなくわがままを言う。だが、先輩二人にとっては、進んで裏方に回ってくれる便利な新入生が入ってくれた、と判断されたのには気が付かなかった。
「ほう、ドラムはありがたい。ドラムを叩いていた先輩が卒業して空いていたんだ」
「ふーん」
「でも、ドラムセットとか置いてないんですね」
ラムリーザは部屋を見渡して言った。
部屋に置いてある楽器はピアノだけで、後はテーブルとそれを囲んでいるソファー一式だけだ。
「うん、楽器を揃えるほど部費は出ていないので、自分で持ち込んでもらうことになってるんだ」
「それで置いてないのね」
「ああ、そこのピアノだけは学校の備品だから自由に使ってもかまわないよ。あと、本格的な活動は、文化祭とかのイベントのときだけだから、それ以外のときは、これも自由に活動してくれていいよ」
聞いた感じでは、普段は特に何もなく、各自で自由に練習すればよいといった感じであった。
「ラム、どうするの? 楽器、帝都に置いてきちゃったよ」
「まぁ、荷物になるし、こっちでも演奏するとか考えてなかったからなぁ」
「え、君たちは帝都から越してきたのかい?」
「ええ、そうです」
「そうか、なるほどね」
「それよりも、いいですか?」
ジャレスと話している時、セディーナが気まずそうな顔で割って入った。その目は、ソニアのほうを見ている。
「さっきから、どうも気になって仕方ないのですが……」
正確に言えば、その視線はソニアの胸に注がれていた。
「何がですか?」
「ソニアさん、でしたっけ。その胸なんとかならないのですか? アピールしすぎですよ」
「ぷっ」
ラムリーザは思わず吹き出してしまった。
先日試着したとき同様、胸が大きすぎてブラウスのボタンが二つほど留められずにいて、さらにベストも大きく開いているので、ソニアの胸は大きく開いている状態だ。それでいて98cmの胸は、まるでロケットのようにつんと突き出していて、ブラウスを押し上げている。そしてその半分ほどが、ブラウスに納まりきらずにはみ出している。セディーナが気になるというのも無理はない。
「どっ、どうにもならないのよ!」
ソニアは顔を赤くして腕で胸を抱え――隠す。
こればかりは仕方ないことなので、ラムリーザはこの場は流すことにした。
「んー、とりあえずソニアの胸はいったん話題から外してください」
「ははっ、確かにそれじゃ仕方ないだろうし、そうしよう」
ソニアとセディーナの会話を聞いて、ジャレスは笑いながら言った。
「それじゃ、軽く音出してみる?」
セディーナが椅子から立ち上がり、部室奥の簡易ステージに向かって歩いた。ピアノの蓋を少し開け、低音側の鍵盤を確かめる。
「ドラムは常設してないけど、練習パッドとバスドラのペダルがあるから、この箱を使いましょう。ベースは、確か使い古した練習用のがあるわ」
「これかな?」ソニアが部室の隅に置いてあったケースを開き、ちょっと古ぼけたベースを抱えた。
ラムリーザは練習パッドをスタンドに載せ、ハイハットの代わりに鞄を置く。新しい環境でスティックを握る手が、ごくわずかに汗ばむ。
「テンポ90、キーはEで八小節。私がコードを投げるから、好きに絡んで」
セディーナが言うと、ジャレスが壁にもたれ、静かに指でカウントを刻んだ。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
最初の一打が、部室の空気をくぐもらせた。

ラムリーザのスネアは軽く、でも芯がある。二拍目の後ろでほんの少し揺らぐ。
ソニアの右手が弦を弾く。Eの開放が床を伝って胸に届く。四小節目でAに滑り、帰る前に短くG♯を噛ませる。勝気な性格が、そのまま指の強さに出ていた。
セディーナのピアノが和音を撒く。三小節でsus4、六小節で一瞬だけIVに寄り道して、すぐ戻る。
ラムリーザはそれを聴きながら、キックの置き場所を半拍だけ後ろへ引いた。空気が跳ねる。
ソニアがにこりと笑い、五度の上にオクターブを重ねた。
たった八小節のはずが、十六、二十四と伸びていく。廊下のざわめきが、いつの間にか遠のいていた。最後のキメだけを目で合図して、三人は同時に音を止める。
「いいじゃない」
沈黙を破ったのはセディーナだ。口元だけで笑い、鍵盤から手を離す。
「基礎がある。しかも息が合う。ドラムとベースが決まれば、後はどうとでもなるのよ」
ジャレスも指を鳴らし、「低音が太いのは正義だな」と短く言った。
ソニアは肩で息をしながら、ラムリーザのほうを見た。
「ね、やっぱり楽しい」
「そうだね、ここで三年間音を育てようか」
その一言が、部屋の天井に薄く残った。
「ただし条件が一つ」
セディーナが指を一本立てる。
「さっきも言ったけど六人。あと二人。見つけられないと、部活は名ばかりの箱になるのよ」
「部員募集のビラ、今すぐ貼りに行こうか」ラムリーザが言うと、ジャレスが笑って紙束を差し出した。
「もう印刷してある。動きの速い新入生は大歓迎だ」
入部早々部員集めの任務が始まるとは思わなかったが、ラムリーザは「ここがはじまりの場所」だと感じていた。
その視線に、部屋の空気が少しだけ熱を帯びた。
「それと、ビラ貼りが終わってからですが、時間があったら楽器屋に案内して下さい。できるだけ近いうちに用意しようと思ってますので」
「よし、今日はこれからお店を案内してあげよう。ということで部長、ビラ貼りはよろしくっ」
「ええ、いいわ。行ってらっしゃい」
ということで、ラムリーザとソニアはジャレスの案内で街に繰り出し、楽器屋に行くことになったのである。
商店街の通りには、日射しに温められた木材と、機械油の匂いが混じって漂っていた。どこからか削り屑の粉が舞い、乾いた風の中にほのかに松脂の甘さを残している。
通りの奥に、古びた木製の看板に「ハミルトン楽器店」と刻まれた店が見えた。その楽器店は、真鍮のベルや弦の残響が空気に溶けており、扉を開けると、乾いた木と金属の匂いがふわりと鼻を撫でた。
店主の老人が、磨き布を手にして微笑む。
「山の音は、木の中に眠っているんだ。叩くか、鳴らすかで目を覚ます」
ソニアは頷きながらベースの指板を撫で、ラムリーザは試しにスティックを握ってみた。
それは、山の静けさの中で最初に響く、二人の新しい生活の音だった。
そこでドラムセットとベースギターをそれぞれ一台ずつ購入して、学校の部室と下宿先の屋敷の二か所に送り届けたのであった。
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