雑談部絶好調
翠雫の月・旅人の日――(現暦:5月4日)
昨日の席替えの余波が、まだ教室の空気のどこかに残っていた。
席を奪い合った者、ようやく落ち着いた者、それぞれが新しい隣人との距離感を探っている。誰かが笑い、誰かがそわそわと椅子を引きずり、微妙にずれた配置のまま授業が始まっていく。
ラムリーザはというと、特に変わったこともなくいつもの席に腰を下ろしていた。
ただひとつ違うのは、前の席にユコの背中が見えること。その距離は以前よりも近く、振り向けばすぐに目が合う。
――この小さな配置の変化が、今日一日の会話を生むとは、そのときまだ誰も気づいていなかった。
「ラムリーザさん」
休み時間、前の席にいるユコが振り返ってラムリーザに話しかけた。身体を窓のほうに半回転させ、背もたれに腕をかけている。距離は、肘ひとつぶんだ。
「ラムリーザの前はユコが守る」
そして、どこかのゲームで聞いたような台詞を言うのだった。
「あの半獣のキャラのことだね。確か使えないキャラだったと思うよ」
「あら、よくご存知ですわね」
話が分かってくれたのか、ユコは嬉しそうな顔をする。
「ソニアがそのゲームをやってたの見ていたけど、結局一度も使わず、ずっと二軍にいたような気がするな……」
「最強武器を作るのも面倒ですからねー」
「あー、蝶のミニゲーム難しすぎってソニアは切れてたみたい」
「それ私は諦めましたわ。リリスは何か徹夜してやってたみたいですが……」
仲良さそうに、ラムリーザとユコはゲームの雑談をしている。だが、それを不満げな顔で見ている女の子が一人いた。ラムリーザの幼馴染、そして現在恋人のソニアだ。
その鋭く刺すような視線に気がついたユコは、ソニアのほうを見てにこっと微笑み、すぐにラムリーザのほうに視線を戻す。
「ところで雷を二百回避けるのはやりました?」
「あー、やってたような気がする」
実際、ラムリーザはそのゲームをプレイしていない。すべてソニアがプレイしているのを見ていただけだ。
「ラムリーザさんはどのキャラが好みでした? やっぱりあの胸の大きな――」
「ちょっと! なんであんたたちそんなに近いのよ!」
とうとう不満が爆発したソニアが、話の腰を折って割り込んできた。
だが、ユコはしれっとした顔で言った。
「教室の机の構造上、隣の席より前後の席のほうがお互いの距離が近くなることは、見れば分かることですわ」
この教室では、隣よりも前後のほうが近い。
机は横に長い共同型で、椅子はすぐ後ろの机に固定されているからだ。
ユコが半身をひねれば、肘ひとつぶん先にラムリーザの顔がある。
「だから私は、譲りましたの。『近さ』は前の席で十分ですから」
彼女は最初からこの構図に気がついていた。だから席替え時に、あっさりとラムリーザの隣をソニアに譲ったのだ。
「ああもう!」
ソニアは不満を露わにして、ラムリーザのすぐ横の椅子まで移動してきて腕をつかみ、ユコに対して非難の言葉を投げかけた。
「だいたいなんでユコはラムと見つめ合ってるの?」
「人とお話するときは、ぴったりくっついて正面から向き合って『はなす』ですわ」
「後ろの人と話すときは、前向いたまま『はなす』、『きた』でいいじゃないの。ラムもデレデレしちゃって!」
「してないって……。ほら、ユコの瞳ってきれいな緑色だなぁ、とか」
ラムリーザは緑色が好きである。そして、ユコの瞳は緑色に輝いている。残念ながら、ソニアの瞳は青い色をしているのだ。
「なっ、もう……、ユコその目を頂戴!」
ソニアはユコの瞳の色に気が付いて、ユコの顔に手を伸ばす。ユコは、その手を払って怒ったように言った。
「さらっと怖いこと言わないでくださる? 私はただラムリーザさんと、好きなキャラについてお話していただけですわ」
「そのゲームの好きなキャラはアケローンよ、文句ある?!」
そのまま強引に会話に割り込んできてしまった。
「ふーん、ソニアって死人が好きなんですね。ネクロフィリア?」
「んなわけないでしょ!」
ラムリーザは二人が仲良く(?)話を始めたので、身体を窓のほうに向けて外の景色を眺め始めた。
「ちょっとラムー、さっきまでユコと楽しそうに話していたのに、なんであたしが来たら外見るのよー」
ソニアは、また不満気な顔になってラムリーザの背中を揺すりながら責めた。
「あたしと外の景色、どっちが大事なのよー」
またこの選択か、とラムリーザは思って、少し意地悪をすることにした。
「そんなめんどくさい問いを投げかけてくる君より、静かに心を和ませてくれる大自然のほうが大事だな」
「むー……」
「あはは、ふられちゃったね、ソニア。彼氏を大自然に取られてますわ、あはは」
ユコも流れに乗って意地悪げにからかう。
「みんな意地悪!」
と言ったところで、始業のチャイムが鳴った。
放課後、リゲルはロザリーンと一緒に天文部に向かおうとしていたので、ラムリーザは声をかける。
「リゲル、最近バンドには来ないのか?」
「バンドねぇ、お前ら雑談ばかりで先輩が来たときしか音楽やらないだろ?」
「あー、そうだねぇ……」
「どうしてもというなら、今日だけ様子を見てやる」
ラムリーザはごもっともと思い、引き止めることはできなかった。あまりよくない傾向だな、と思いつつも、結局はみんなのやる気次第なので、ラムリーザにはどうしようもなかった……。
先輩は生徒会の仕事やバイトなどで忙しく、掛け持ちで部活をやっているので、この時期はほとんど顔を出さない。
今日もいつもの女子三人はソファーを陣取って雑談、ラムリーザはユコの作った楽譜を見ていた。そして様子見としてリゲルも参加したが、彼は雑談に加わらず、テーブル席で天文誌を静かに読んでいた。
リリスやユコは、ラムリーザが何をしていようがお構いなく話しかける。
「もしソニアがいなかったら、ラムリーザは私とユコのどっちを選んでいたかしら?」
「最近、返事に困る選択肢ばかり投げかけてくるなぁ」
「さらっとあたしの存在を貶さないでよね」
「まあ、ソニアがいなかったら音楽やっていたかどうかもわからないし、ひょっとしたらここで君たちと出会うこともなかったかもね」
昔、先に音楽に興味を持ったのはソニアだった。そしてラムリーザも一緒にやろうよと誘ってきて、妹のソフィリータもついてきたのだった。ソニアがどこで興味を持ったのかは不明だが……。
「ふーん、ラムリーザがソニア抜きで私たちに出会う可能性はないのね……」
少しリリスは残念そうだ。
「なぜそんな話を……」
「ん? ラムリーザが私とユコのどっちを選ぶのか興味あるでしょ?」
「興味ないわよ。ってか、あたしをディスらないでってば!」
生産性がない「もしも」の仮定の話で盛り上がる。ソニアはあまりいい気はしていないみたいだが。
「うむ、僕とソニアが一年ずれていたら、ひょっとしたらあり得たかもしれないな」
スコア集を見ながら、顔をあげずにラムリーザはつぶやく。
「どういうこと?」
「もしソニアが僕より一つ上なら、僕が中学を卒業する前に全寮制の女子高校に入っていたと思う。実際僕がここに連れて行くって決めなければそうなっていたわけだし。そうなれば連れて行けない。逆に一つ下なら、中学卒業するまでは親元を離れてはならないという規則があるので、これも連れて行くことができない」
楽譜から顔を上げずに淡々としゃべるので、ソニアの表情がなんともいえない顔になっていくのにラムリーザは気がつかない。ソニアは、もしそうなっていたらという考えをめぐらせて、ゾッとする思いでいるのだ。
「ふえぇ……お母さん、ラムと同じ時代に産んでくれてありがとう……」
何かお祈りでもするような仕草をしながら、ソニアは感謝の言葉を述べている。
「あと、あるとしたら、僕がソニアに興味を示さなかったら……ってことだな。まぁ、実際はこうして一緒にいることにしたわけだが」
「怖いこと言わないでよ……」
でも、現実はここにある。君は隣にいる。それでいい、と言葉には出さないが、ラムリーザはそう考えていた。
その間もずっと譜面を見ていて、ソニアの悲しそうな表情に気がつかない。ラムリーザ自身は、どうでもいい仮定の雑談に乗って語っているだけなのだ。
「でもラムリーザはソニアの胸の虜になってしまった……と」
「どちらかと言えば、健康的な脚のほうが好みなんだけどな」
「そうなのよねー、だからあたしの脚を隠すこの長い靴下がうっとうしいわけで。かと言って靴下下げてたら風紀委員に文句言われるし」
ソニアは靴下の裾を膝まで下ろしたり、また太もも半ばまで持ち上げながらぶつぶつ言う。
「でもこのくらいが丁度いいですわ。あまり肌を露出するのは恥ずかしいですし、この靴下の素材は保温や放熱の効果があって、夏は涼しく冬は温まるようにできているみたいですし」
「つまり、ソニアは露出狂ね」
リリスがくすっと笑って言った。
「だっ、誰が露出狂よ!」
「要するにラムリーザは脚フェチってわけね。ちょっとこっち見てくれるかしら?」
リリスが呼びかけたところで、ラムリーザは「ん?」と顔を上げる。
こっちを見たのを確認して、リリスは微笑を浮かべながら、見せつけるように足を大きく上げて、組んでいた足を左右入れ替えて見せた。
「そういう誘惑はやめましょう」
ラムリーザは表面上真顔で言って、再び楽譜に目を落とした。
今日も雑談部絶好調であった。
笑い声が絶えない部室の隅で、リゲルは一度だけ時計を見上げた。その表情には、静かな諦めの影が差していた。
窓の外では、薄暮の光がキャンパスを溶かしはじめている。彼の指先は、膝の上の天文誌をなぞりながら、ふと閉じられた。
――馬鹿な女たちだ。ラムリーザからも何とかしようという意思が見られない。そしてやはり、音楽は鳴らない。
それが決定的な違和感だったのかもしれない。

やがて誰にも気づかれないまま、彼は席を立ち、廊下の向こうへと姿を消した。