魅惑の壷を再び――
帝国歴七十八年 芽吹の月・森人の日――(現暦換算:三月二日)
三日間の学年末試験が終わった翌日、ユコはリリスの家に遊びの誘いにやってきた。篭りがちなリリスを外へ連れ出すのは、三年前から、だいたいいつもユコの役目だった。
「リリス~、今日は学校お休みだし、遊びに行きましょうよ~」
ユコは、リリスの部屋の窓の外から声をかける。すぐに玄関のほうからどたどたと音がして、リリスが家から出てきた。
「どこに行くのかしら?」
「ん~、引越しも近いし、適当にぶらつかない?」
「ああそうね、そうしようかしら」
「じゃあさ、今日は久しぶりにあの場所に行ってみない?」
そういうわけで、二人は並んで出かけていった。
行き先は、田舎町ポッターズ・ブラフで、唯一と言っていいケーキが評判の喫茶店として知られていた。繁華街のエルム街まで出掛けたら、そのような店はいくつか存在するが、この小さな田舎町ではここだけだった。
ポッターズ・ブラフの駅から少し離れた場所にあった喫茶店。そこはユコとリリスにとって、忘れられない思い出の場所でもあった。
三年前――
「リリスさん、遊びに出掛けませんか?」
「あ、はい」
ユコは、引っ越してきて間もないころ、隣に住む黒髪の娘と仲良くしようとしていた。
しかし黒髪の娘リリスは、暗い雰囲気で外に出るのが面倒そうで、会話もぎこちない根暗吸血鬼の真っ最中だった。
「リリスさんは、好きな食べ物はなぁに?」
そんなリリスに、ユコはフレンドリーに話しかけたものだ。
「ケーキです……」
「どんなケーキ?」
「……甘いクリームの、ケーキ」
はきはきと話しかけるユコに対して、リリスはぼそぼそと沈んだ声で返答する。
「それじゃあケーキを食べに行きましょう。ねぇ、この地方でおいしいケーキ屋ってどこ?」
「……行ったことはないけど、駅前から少し路地裏に入った場所にある、お店がおいしいみたいです」
「行ったことないのにわかるの?」
「お母さんが、買ってきてくれました」
ユコは、リリスに手を差し出してから、にっこりと微笑んで言った。
「ねぇ、案内して頂戴。行ってみたいなぁ」
差し出されたユコの手は、昼間の光を反射して眩しすぎるほどだった。リリスにとって、外の世界は常に自分を摩耗させるだけの場所だった。
けれど、目の前の少女が浮かべる、一点の曇りもない「にっこり」という擬音が似合う笑顔に、リリスの喉の奥から絞り出されたのは、拒絶ではなく小さく震える囁きだった。
「わかりました」
それでも、手を取り答えながらリリスは思った。私も行ったことがないから、正確な場所までは知らないのだけど、と。
現在――
この日、二人で訪れたこの場所は、三年前リリスに案内されて初めてやってきた場所だった。
駅から少し離れた閑静な場所。そこだけ時間の流れがゆったりしているような、落ち着いた一角。
「初めてリリスと一緒に出掛けた場所が、ここなんですのね……」
「広々としているわね」
ただし、二人の目の前には、更地が広がっていた。そこには何も建っていなかった。
「いいお店だったのに、まさかあんなことになるとは思っていませんでしたわ」
「仕方ないよね」
二人は、何もない空間をぼんやりと見つめていた。
一年半前まであった喫茶店の痕跡など、もうどこにも残っていなかった。
三年前――
「へぇ~、この店がそうなのね。早速食べに入りましょう」
妙にうろうろと迷った末、ようやく辿りついた喫茶店。ユコはすぐに入ろうとリリスを引っ張るが、彼女は妙にもじもじしている。
「どうしたの? リリスさん」
「いえ、初めてなので、緊張してきちゃいました」
「私も初めてよ、初めて同士、仲良く行きましょ~」
ユコは、ぐずるリリスを引っ張って、喫茶店の中へと入っていった。店の中では、可愛い売り子さんが「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。
二人は初めての喫茶店で、楽しい一時を過ごしたのである。
リリスも本当は行ってみたかったのだが、外に出るのが怖くて常に母親任せだった。
突然現れた隣人に、心を開いた瞬間であった。
現在――
更地を眺めるユコとリリス。
踏み固められた土の上を、湿った春の風が通り抜けていく。かつてそこにあったはずの甘い香りは、もうどこにも残っていない。
リリスは、かつての入口があった辺りをじっと見つめていた。まるでそこにあるはずのないドアベルの音が、今にも空耳として聞こえてくるのを待っているかのようだった。
「この店のエンゼルケーキ、おいしかったですわ。できればまた食べてみたいんですけど、どこかに新しく同じ店ができていたりしてないんでしょうかねぇ」
「単純に移転じゃないから難しいかもしれないわ」
「もったいないことですのねぇ」
昔のこと――初めてリリスと出かけたときのことを思い出していて、ユコはあることに気がついた。
「そういえば、初めて会った時のリリスって、言葉遣い堅かったですわねぇ」
「ユコも最初は普通だったのに、いつの頃からかお嬢様言葉になっちゃってね、くすっ」
「いいんですの」
きっぱりと言い切るユコであった。
三年前――
この喫茶店が気に入った二人は、その後も何度か一緒に出掛けるのだった。
「今日もエンゼルケーキを食べに来たぞ~」
「私は今日は、キーライムパイにします」
ユコは、いつものように固い表情をしているリリスの顔を見ながら静かに言った。
「そういえばさ、リリスってなんでいつも敬語なの? それに話すときも、いつも視線がきょろきょろしている」
「そ、そうですか? 敬語になっていますか?」
実際には丁寧語なのだが、そこまで気が回らない二人である。とにかくユコは、他人行儀な口調が気に入らないのだ。
「その言葉遣い、堅いの。私はあなたにお世話――じゃないわ、友達でしょ? 普通にお話しようよ」
「あ、う、……友達?」
この時期、リリスは周囲からは根暗吸血鬼とからかわれ、地味で暗い一人ぼっちだった。
たまたま隣に越してきた、先入観のないユコだから普通に接してくれているが、リリスにとっては友達と一緒に遊んだのは何年ぶりになるか分からなかった。少なくとも五年以上は、一人ぼっちだった。
ここまでリリスに親しく接した相手は、ひょっとしたら初めてだったかもしれない。
「リリスが言葉遣いを変えてくれたなら、私も言葉遣いを変えるから、ね、もっとフレンドリーに行こうよ」
ユコは、どぎまぎする新しい友人に、笑顔でそう語り掛けるのだった。
現在――
何もない空間に、春の訪れを示すかのような風がさらっと流れた。
「私の言葉遣いを直すのはよかったけど、あなたまで変える必要なんてなかったのにねぇ」
「いいんですの、私もこういう話し方をしてみたかったんですの」
何がきっかけでユコはお嬢様言葉を演じるようになったのかはわからないが、馴染んでいくうちにリリスも口調が砕け、ユコの口調もそれが素みたいになっていった。
そういえばユコの呼び方も、リリスさんからリリスに変わっていった。ただしリリスの方は、最初の頃はユコの名前を呼ぶことすらなかった。それがいつの頃からか、自然に名前を呼び合える関係になっていったのだ。
「へぇへぇ、いいわそれで。それにしてもこの店、なくなる時はあっという間だったよねぇ」
「犯人がすぐに捕まったのはよかったことですわ」
二人は、この思い出の喫茶店の最後のことを思い出していた。あの時のことは、二人にとって忘れられない一日になっていた。
二人の足元で、小石が一つ転がった。その乾いた音だけが、あの日から今日までをつないでいるみたいだった。
一年半前――
ある日、二人がいつものように美味しいケーキを食べようかと思って馴染みの喫茶店を訪れたところ、そこにはほぼ全壊してガレキと化した店の残骸が、ただ残っているだけだった。
至るところから黒煙が立ち上っている。残っている柱も真っ黒だ。
放火の疑いが濃かった。
ユコとリリスが楽しみにしていた喫茶店は、一夜のうちに焼け落ちてしまったのだった。
いつか食べたエンゼルケーキの真っ白なクリームを思い出す。けれど、目の前に広がっているのは、それとは対極にある、すべてを塗りつぶすような不吉な黒だった。
焦げた木材の臭いが鼻をつき、二人が大切に育んできた「居場所」が、物理的な形を失ったことを無情に告げていた。
二人は、かすかに震えながら、呆然と見つめることしかできなかった。
その後、今に至るまでこの喫茶店は、再建されていない。
現在――
「私たちの始まりの店はなくなってしまったけど、私たちの関係はこれからもずっと続いていくんですの」
「喫茶店の名残は残しているわ、コミュニケーションサークルとして。あと、テーブルトークゲームに出てくる冒険者の酒場もそれにしたわね。でもいずれまた、私たちの手でこの店を復活させることができたら面白いと思わないかしら?」
ユコは、リリスの肩にもたれかかってきて言った。

あの店は、ケーキの味だけじゃなくて、リリスが外へ出る理由で、ユコが隣人を友達に変えた場所だった。二人にとっての「壷」は、甘さを閉じ込めて守る器じゃなく、「居場所」を守る器になったのだ。
「私、いつか必ずまた戻ってきますわ。その時は、この思い出の店を二人で復活させようね」
ユコもリリスも、喫茶店の経営なんてやったこともないし、知識もなかった。でも、何か約束をしておきたかった。また二人が会える日がやってくるために。
「そうね、それなら私はケーキの一つでも焼けるようにでもしておこうかしら」
これまで一度も焼いたことのないケーキ作りを、リリスは何も想像できないまま約束をしてみる。こうしておけば、明日への希望が持てるような気がしたから。
「じゃあお互い、次に会うときまでの宿題にしておきましょう。お互いにケーキの一つや二つ焼けるようになっていること。喫茶店の経営は知らないから、そっちはリリスにお願いしますわ」
「喫茶店の経営なんて知らないわ。ケーキはユコが焼けるようになればいいのよ。経営はラムリーザにでもやらせるわ」
「それはいいですわね。でもそれじゃあリリスは何をするんですの?」
「緑茶、紅茶、ケーキ、クッキー、コース料理はいかがですか? いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」
「それ客引きですの」
二人は顔を見合わせて笑った。
リリスの口から出た「いらっしゃいませ」の練習は、お世辞にも愛想が良いとは言えなかったが、ユコにとってはどんな美しい旋律よりも心地よく響いた。
いつか建て直そう。二人は未知の領域、やったこともないことを夢見ながら笑い続けていた。
失くなったのは建物だけで、二人がそこで覚えた呼吸は、失くならなかった。だから名前だけは、壷みたいに大事に抱えて持ち歩く。
二人の始まりの地、思い出の店、語り合ったあの場所。
風の中に、もう匂いは残っていない。それでも二人の胸の奥には、あの甘さだけが、いまも小さく灯っていた。