平和の象徴が倒れた日
帝国暦九十二年 黎明の月・女神の日(現代暦:十月中旬)
ラムリーザが校舎の屋上でレフトールに強烈な一撃を食らって、意識を失った直後のことだ。
屋上には、まだ熱を帯びた沈黙が張りついていた。
実は、ソニアたちがリゲルを連れて戻ってくるより先に、屋上に現れた女生徒がいた。
その女生徒は、倒れているラムリーザを見るなり、鋭い目でレフトールたちを睨みつけて言った。

「あなたたち、ここまでやれとは言ってないわ。加減もできないの?」
屋上に吹き抜ける風が、彼女の髪をさらりと揺らす。
レフトールは困った顔で、額にこぶしを当てながら答えた。
「あ、癒し猫……どうもすみません。でもさぁ、俺って強すぎるでしょ? だから加減が難しいんですよ」
「そのようなことが理由になると考えているのですか?」
レフトールは、その女生徒に対してだけは、妙に低姿勢で事情を説明していた。
「それよりもチャス、お前どうした? 右手が痛いのか?」
レフトールが心配して声をかけたのは、先ほどラムリーザに掴みかかってきたほうの生徒だ。右手をさすっており、顔色が少し悪い。チャスと呼ばれた男子生徒は、倒れているラムリーザをつま先で軽くつつきながら言った。
「いや、こいつに思いっきり掴まれた手がしびれて動かねぇ……」
レフトールは「何だそれは……」とつぶやいたところで、校舎のほうから人の気配を感じた。
「誰か上がってくるぞ」
レフトールの一言で、女生徒は建物の影に隠れた。
その後は、ソニアが騒ぎ、リゲルに睨まれたレフトールが逃げ出す――そんな流れだった。
ソニアたちの話し声が遠のいてから、女生徒がそっと建物の影から覗くと、そこにはもう誰もいなかった。
女生徒はため息をついてつぶやいた。
「ラムリーザが、ここまであっさり崩れるとは……。聞いていた情報よりも、ずっと早いわ。……これじゃ、手を出す暇もないわね。作戦、変えなければ……」
女生徒の視線は、ラムリーザが倒れていた場所のコンクリートを冷たく射抜いていた。
保健室のベッドにラムリーザを寝かせた後、授業が始まるということで先生に追い出されたソニアたちは、教室へと戻っていった。
しかし、いつものほんわかした雰囲気はなく、緊張と落胆がその場を支配していた。
みんなの中で、ラムリーザは平和の象徴だった。だがそれが、暴力の前に崩れてしまったのだ。
「でもなんだか腑に落ちませんわ。りんごやゴムマリを握り潰せて、パンチングマシンですごい記録を出すのに、なんでやられちゃうんですの?」
最初に口を開いたユコは、不満を口にした。平和の象徴であると同時に、力強さの象徴でもあったはずなのだ。それが崩れた衝撃は、自分たちが信じていた「日常」という安全神話が壊れる音でもあった。
「それは、そのっ……」
ユコに責めるような視線を向けられて、ソニアは悔しそうに俯いた。
「レフトールは本気で強い。ただのお山の大将じゃない。奴の蹴りは本格的だ。ラムリーザがどれだけ鍛えているかは俺は知らないが、頭とか急所は鍛えようがないからな」
「それだけじゃないもん……」
「お前たちを庇い、それに三人相手は多勢に無勢か」
リゲルの指摘に、ソニアは小さく頷いた。ラムリーザ一人ではさすがに危ないと感じたからこそ、ソニアはリゲルに助けを求め、慌てて屋上へ戻っていったのだ。
ソニアはうつむいたまま、黙って歩き続けた。
「幻滅したでしょ?」
唐突にソニアがつぶやいた。
えっ? といった表情で、リリスとユコは、ソニアを振り返った。一方リゲルは無関心を装っている。
「ラムは戦ったら簡単に負けるんだ。『ラムリーザ様』って何? 馬鹿みたい、ざまーみろ!」
ソニアは半泣きでふてくされたように、二人の美少女、特に慕っているユコに向かって皮肉っぽいことを言った。
ユコは言葉を失ったが、リリスは微笑を浮かべてソニアに反論した。
「あなた、ラムリーザの株を下げて、私たちを追い払って独占するつもりでしょう?」
「そっ、それは……。ふんっ、何よ!」
図星をつかれたのか、ソニアはそっぽを向く。
「あなたのほうこそ、がっかりしたんじゃなくて?」
「違うわ! あたしはラムが危ないってこと知ってたもん! でもね、でもね、ラムは一対一なら誰にも負けないこと知っているんだから!」
ソニアは、まるで自分に言い聞かせるかのように力説するのだった。年季の入った想いは、そう簡単には揺らがない。
それを聞いてリリスは、励ますようにユコの肩を叩いて言った。
「それなら、私たちも同じよねぇ、ユコ」
「うん、そうですわ。別に私はラムリーザ様が喧嘩強いかもしれないってところに惚れたわけじゃありませんの。あの人は、いつも私たちのことを大切にしてくれます。あのときだって、自分を犠牲にしてまで私たちを逃がしてくれたじゃありませんか。やっぱりラムリーザ様は、すばらしい方です!」
ユコの剣幕に、ソニアは思わず舌打ちした。しかしすぐに笑顔を浮かべて言った。
「なんだ、結局何も変わらないじゃないの」
「そうね、くすっ」
「……そう。私が知っているラムリーザ様は、暴力でねじ伏せる人じゃない。もっとずっと、静かで、確かなものを持っている人ですわ」
三人は、何事もなかったかのように、いつもの無邪気な笑顔を取り戻していた。
「……で、またあいつらが来たらどうするんだ?」
教室に戻ってから、リゲルはその雰囲気に水を差すようなことを言った。
気持ちの上では落ち着いても、物事がすべて解決したわけではない。この先、ラムリーザと仲良くするたびに絡まれるようでは、楽しい学校生活は送れない。
「リゲルさんになんとかしてもらいましょう。あのときだって、リゲルさんを見て逃げていきましたし」
「リゲルって喧嘩強いの?」
ユコとソニアは、リゲルのほうを振り返ってそれぞれの思いを述べた。
「それもあるが、レフトールなら本当のことを知れば、ラムリーザに手を出すはずは――」
そのとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「――授業だ」
そういうわけで、リゲルはそれ以上語ることはなかった。
席についた後、リリスはソニアのほうを振り返って言った。
「私はね、リゲルに頼るんじゃなくて、ラムリーザ自身に決着をつけてほしいと思ってるわ」
「あたしだってラムになんとかしてもらいたいよ。でも、相手が大勢だったらさすがのラムも……」
「レフトールって群れてるらしいし……ねぇ」
それだけ言うと、リリスはため息をついて前に向き直った。
「また来たら、『ラム兄』に連絡してやるんだから……」
ソニアはそうつぶやき、頬杖をついてぼんやりと隣を眺めた。しかし当然ながら、そこには誰もいない。
「ラム……」
寂しそうな瞳を向けるしかなかった。
ラムリーザがハッと気がつくと、いつの間にかベッドに横になっていた。

屋上にソニアたちと遊びに行った記憶はあるのだが、その後がぼんやりとしていて、何が起きたのかわからなかった。ということは……。
「はぁ、またやっちまったか……」
ラムリーザは身を起こすと、周囲をうかがった。すると、ベッドの脇には、見覚えのある娘が椅子に座って待っていた。
「ラムリーザ、気がついたかしら?」
「あ、ケルムさん」
この地方の領主の娘であるケルムが、ラムリーザを見守っていたのだ。
なぜここにいるんだろう……。ラムリーザがそう思っていると、ケルムが尋ねた。
「あなたが暴力を受けて保健室へ担ぎ込まれたと聞きました。いったい何があったのですか?」
「暴力? 誰に? いやぁ、参ったな。全然覚えてない……なるほどそうか。そういうことがあったんだね」
ラムリーザは、自分が保健室で寝ている理由がなんとなくわかった。ケルムの話では、誰かにやられたらしい。
それと、ケルムがここにいる理由もなんとなくわかった。風紀監査委員として、暴力沙汰を放っておけないとでも言うのだろう。
「覚えていない?」
ケルムは、怪訝な目つきでラムリーザを見つめた。
「うん。詳しい仕組みはわからないけど、頭に強い衝撃を受けて意識を失うと、その前後の記憶が抜け落ちるらしいんだ」
「それじゃ、誰にやられたのかわからないのね……」
ラムリーザの話を聞いて、ケルムは言葉を失ったようだ。
しばらくの間、沈黙が流れていった。
ラムリーザは、頭がはっきりしてきたのでそろそろ起き上がるかと考えた。体調が回復した以上、いつまでも寝ているわけにはいかない。
ベッドから降りて立ち上がると、ケルムも一緒に立ち上がった。
「えっと、その……」
ケルムは、何かを言いたそうにラムリーザのほうを見上げた。
「ん? 僕に何か用事でもあるのかな?」
ラムリーザは、実のところケルムが苦手だった。ただ、個人的には苦手なだけで、公の場でのケルムは評価に値するとも考えていた。
「ラムリーザ、何か困ったことがあったら、すぐに私に言うのですよ」
「うん、頼りにするよ」
ケルムは少しの間ラムリーザの顔を見ていたが、保健室の外に誰かが近づいてくる気配を感じると、身を翻してラムリーザの傍から離れ、保健室から立ち去っていった。
「ラム! 気がついたんだね!」
外からやってきたのはソニアだった。少し遅れてリリスとユコもやってきた。
「うん、もう大丈夫。心配かけたね」
「もう……一人で三人も相手にするなんて、死んじゃうかもしれないんだよ? 無茶はやめてよ」
「そんな大げさな……」
ラムリーザは笑って答えたが、ソニアは泣きそうな顔をしている。しょうがないな、と思いながらラムリーザはソニアの頭を撫でてやった。
「ふえぇ……」
「ふえぇじゃない。ほら……えーと、もう放課後か。帰るぞ」
ラムリーザは、リリスとユコにも「もう大丈夫だ」と示し、ソニアの肩を抱いて保健室を出ていくのだった。
――また、肝心なところだけが抜け落ちている。
殴られたのか、蹴られたのか、誰にやられたのか。自分の身に起きたことなのに、自分の手元に何も残っていない。そもそも、何のためにやられたのかも曖昧だ。
ラムリーザは、それが一番まずいと思った。
ケルムに借りを作りたくない。あの人は「正しい」から、正しさの名目で事態が大きくなる。
ソニアたちも、これ以上怯えさせたくない。泣き顔を見せられるのは、正直、きつい。
だが、どうすればいい?
大切な人を守るために、自分が何に備えればいいのか――その輪郭だけが、まだ掴めないままだった。そして、思考を巡らせるほど、その答えは逃げ水のように遠ざかっていく。
平和だった学校生活に、突然降りかかってきた暗雲。
とりあえず、ラムリーザは無事だった。
